ノルウェーの森 下
※直子が死んだ今(を回想しているのは三十七歳の物語上の現在
「でも可哀そうなお父さん。あんなに一所懸命働いて、店を手にいれて、借金を少しずつ返して、そのあげく結局は殆んど何も残らなかったのね。まるであぶくみたいに消えちゃったのね」「君が残ってる」と僕は言った。
どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ
「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」
「すごく可愛いよ、ミドリ」と僕は言いなおした。「すごくってどれくらい?」「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」
「君が大好きだよ、ミドリ」「どれくらい好き?」「春の熊くらい好きだよ」
「春の野原を君が一人で歩いているとね、向こうからビロードみたいな毛並みの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。そして君と子熊で抱き合ってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?」
「どれくらい私のこと好き?」と緑が訊いた。「世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい好きだ」
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村上春樹
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