自分とか、ないから。教養としての東洋哲学

著者は32歳の時に無職になり離婚した東大出身者→虚無感に襲われて、克服するため実家に引き込み本を読みこんだ

虚無感を調べている哲学者は少ない→生きることに執着が少ないから→唯一調べていたのがニーチェ→しかし、ニーチェは発狂して18年間布団に入ったまま死んでいる→東洋哲学に手を出す

西洋哲学→「世界の根源とは何か」といった「人間の外側」

東洋哲学→「自己(私)とは何か」という「人間の内側」

東洋哲学の良いところ→テーマは、どう生きればいいのか?そして、答えがある。よく哲学は答えがないというが、それは西洋哲学→東洋哲学の有名人はブッタ(お釈迦さま)

東洋哲学は、失恋しても引きこもっていても楽になれる

ブッタは裕福すぎて自分が分からなくなり、29歳の時に妻と生れたばかりの子と王子の地位を捨てて自分探しの旅に出る→苦行の末に粥食って瞑想して悟→王子としてあらゆる快楽を知っているが、自分を捨てることが一番気持ちい→死後、ブッタの教えを後世に残すため弟子がお経を作成→ブッタの教えの虚無が難しすぎて、当初は簡潔だったものが、様々解釈され枝分かれして難しいものになっていった

仏教への関心が次第に薄まっていったが、リュウジュという哲学者が立て直す→龍樹、インド版ひろゆき。顔も似ている

家族も会社も国も物も町も全てフィクション。すべては繋がっている。境界線は、ことばの魔法によってできた幻

フィクションの世界を出ると、そこは空。すべてが繋がっている演技の世界→不変の性格や個性など存在しない

人は境界線を自分で決めているだけ。実際は存在しない。宇宙とも繋がれる。太陽のエネルギーによって作物は育ち、それを食べて人は生きている。人は太陽からのエネルギーだけで存在している。つまり太陽と同じ

空を悟った人にはどんな世界が見えるのか→空は言葉では表せない→空を悟ると米粒一つに宇宙が見えるようになる→コメができるまでに全て宇宙のエネルギー(太陽)でできている→それを食べてエネルギーとする人間も結局は宇宙のみでできている→はじめから人は宇宙とつながっている→宇宙とつながっていないと錯覚してしまうのは、人が境界線を勝手に想像しているから

空を感じるとき→卒業式の日→人も物もみんなが意味から解放されて何物でもなくなった時のこの感じ、これは虚無ではなく空である

中国とインドの哲学は驚くほど似ている→この世はすべて繋がっている→違っていることはゴールが正反対→インド哲学はこの世はクソ、2度と生まれ変わりたくない。人生から脱出するのがゴール→中国哲学はこの世は最高。仙人になって長生きしたい→どうやったら人生が上手くいくかをまとめている

禅の自分とは何かの回答→そんなものはない

密教の自分とは何かの回答→曼荼羅(マンダラ)

どちらも全てがフィクションであるというのは変わらない。密教の方は、さらに悟りの中に隠された悟りを見る

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